【聖書箇所朗読】
【説教音声ファイル】
2020年1月19日説教要旨
聖書箇所 マタイによる福音書 14章22~32節
心安かれ 我なり、懼(おそ)るな
瀬戸 毅義
今朝は、福音書における奇跡の一つを取り上げ共に学びたいとおもいます。
福音書には癒しの奇跡があります。死者をよみがえらせる奇跡があります。自然に対する奇跡があります。嵐を静めたり、5千人のパンの食事などです。今朝の箇所は波上の歩行の奇跡です。
この奇跡が実際に起きたのかどうかを私たちは現在確かめることはできません。またこのようなことを人に無理に信じさせることもできません。
この奇跡を合理的に説明しようとする試みがありました。それによると、イエスは湖辺の陸上を歩いたのであるが、嵐で動転していた弟子たちは、夜明けの薄明りの中でイエスが湖上を歩いたと見誤ったのだと説明します。パン五つと魚二匹で5000人が満腹した奇跡が直前にあります。
この奇跡の場合の説明の例。密かに各自が弁当を持っていたのであるが、イエスの愛に感激して、お互いにその弁当を分け合って食べたのだといいます。しかし奇跡をこのように説明してもその真の意味は把握できないでしょう。
イエスの奇跡は、新しい時代の到来を示すのであり、またメシアの業(わざ)であることを現わしているのです。
この奇跡の真否は別として、これを私たちの日常生活の経験や人生問題で考えると思い当たることがあるのではないでしょうか。
聖書では、海や水は不安と動揺のしるしです。イスラエル人を海上の危機から救出できるのは神だけです(出エジプト14:10以下)。詩編には「神よ、わたしをお救いください。大水が流れ来て、わたしの首にまで達しました。」とあります(69:2-3)。
弟子たちが乗った小船はこの世における教会です。またクリスチャン各自の生涯を象徴しています。イエス不在の教会(クリスチャン)は、夜の闇と逆風の中で動揺し溺れそうになります。
私たちには病気や様々の不安、苦しみ、死に対する恐怖、孤独感…多種多様の困難があります。「主よ、お助けください」(30節)とのペテロの叫びは、私たちの叫びです。「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」(27節)。人生の海の荒波の中で、頼るべきお方はイエス・キリストです。
イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった(14:31-32)
この箇所でペテロの信仰の薄さが責められているのではありません。むしろ、ペテロは挫折した時、一心にイエスにお任せするのです。これが信仰です。
私たちの信仰も小さく薄いものです(14節)。救いが全く望めない状況の中でも神の力に限界はありません。
北陸金沢の私の家には仏壇があり傍らに「御文」がありました。金沢では仏壇の横に蓮如(れんにょ)の「御文」(おふみ)があることが多いのです。著者の蓮如(1415-1499)は、室町時代浄土真宗の僧でした。クリスチャンとなって御文を読んでみました。例えば以下の文で、弥陀如来をキリストと言いかえますと蓮如の信仰に深い感動を覚えます。
一心にふたごころなく、弥陀一仏(キリスト様お一人) の悲願にすがりてたすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来(キリスト様)の御たすけにあずかるものなり。
誤解なきように付け加えます。十戒に「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」(出エジプト記20:3以下)とあります。いかなることがあっても、私たちは真の神であるヤーウエ以外のあだし神を礼拝することがあってはなりません。わたくしが教えられるのは、蓮如が記す一途なこころです。
500年前の蓮如に較べれば、現代の教会の信仰は、あまりにも移り気であり落ち着きのないもののように見えます。言いかえれば浮気的な信仰です。ヤコブの手紙には「ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている」(1:6、7)とあり、「そんな人間は、二心の者」(1:8)とあります(私のことを言われているようです)。二心なくキリストにお任せする不動の信仰を持ちたいと思います。
「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」(27節)は文語訳で、「心安かれ、我なり、懼(おそ)るな」(大正訳)でした。(わたしである)のἐγώ εἰμιは文字通りにはIt is I ですが、I AM。神聖にして超自然的な響きが読み取れるとのこと(Peak聖書註解)。文語訳の方が日本語としては優れているように思います。これはまたキリストがご自身を表すときに用いられる表現です(ヨハネ6:35)。
モーセが神に「神名は何といいますか」と尋ねたとき、神は「わたしは、有って有る者」, また「わたしは有る」というものだといわれました(出エジプト記3:14)。英訳では“I AM WHO I AM”、”I AM”(NKJ)。